山口陸上競技協会の
発足と変遷

発足とその経過

山口陸協発足の背景

  • 明治18年、山口中学は当時の海軍兵学寮、大学予備校や札幌農学校などで外国人教師指導のもとに行なわれた運動会をまね、いちはやく運動会を行なった。これがきっかけとなり各師範学校付属をはじめ一般尋常高等小学校へと波及していった運動会が、陸上競技の萌芽といえる。
     更に明治32年には、山口高等学校が、長距離レースのはしりとも云うべき山口―防府間11哩競走を実施し、ここに近代陸上競技の登場をみた。
  • 大正、昭和へと進むにつれ山口県人の競技力は飛躍的に向上し、縄田尚門(大正14・マニラ極東大会1500米優勝)、田島直人(昭和11・ベルリン五輪三段跳優勝)、田中 弘(仝前、走高跳6位)、阿武巌夫(短距離)等の国際的、全国的選手を輩出、彼等が陸上山口の先兵となり土台を作った。
  • ベルリン五輪等の刺激により本県においても県体育大会や県外を含めた広域の競技会が開催され、競技人口の層が拡がった。戦時色にぬりつぶされた世情ながら世話役も競技者達もよく堪えた。このような状勢下、県東部では津脇伴行(昭和10・防長クラブ)が徳山を中心として、県西部では立脇政一(昭和8・山口陸協即下関陸協)が下関を中心としてそれぞれ組織をつくり献身的な活動をした。この活動が実のり終戦後中央における陸上競技復活の気運台頭と相呼応することになった。即ち、疎開で郷里宇部市に居を移していた縄田尚門を筆頭として田中 弘、津脇伴行等が県陸上界復活へ立ち上った。特に津脇伴行は終戦の年の冬から県の東西を駆け巡り同志を糾合し、翌21年2月にようやく県の統一した組織づくりにこぎつけた。

発足の経過

  • 日本陸上競技連盟山口県支部として

 日本陸連は昭和20年11月6日、東京銀座の交詢社で「再建準備会」を持ち、戦時色を一掃し民主的で誰からも強制されない陸上競技を一日も早く復活する決議をし、12月9日「復活陸上競技会」を開催した。これには本県から田中 弘、河岡徳寿が参加した。
 この中央の気運を受け山口県も自主的に、いち早く昭和21年2月17日徳山市で県下の愛好者が集まり「山口県支部」としてのうぶ声を挙げた。ここに一応の規約づくりが出来、役員も(会長―青柳一郎)(副会長―縄田尚門)(理事長―津脇伴行)というメンバーが内定、発足をみた。
 しかし、この時点では「山口県支部」という県内部の組織づくりといった段階で、正式に日本陸連に直結した加盟団体ではなかった。

山口陸上競技協会の発足

 日本陸連は、翌年の22年地域支部組織制を廃止することを決め、各都道府県単位で、日本陸連に直結する加盟団体を組織することになった。これは前年度に誕生した第1回国民体育大会の反省(第1回の京都では国体と選手権を兼ねたもので個人単位のものであった。)から第2回の石川国体から日本選手権を最高の条件で行なうと同時に国民体育大会を都道府県対抗の形式に改めるように組織、整備されたためであった。
 このようないきさつから本陸協も国体をはじめ全国的大会に日本陸連加盟団体として正式に参加したのである。そして宇部市陸上競技場において「全日本招待陸上競技大会」が山口陸協主催で行なわれた際、開会に先立ち初代会長青柳一郎氏(当時山口県副知事)の推載式が行なわれ、ここにおいて名実共に山口陸上競技協会の発足を見るに至ったのである。

  • ときに昭和22年11月16日午前10時であった。(中国新聞「山口陸協の今昔」より)